シンプラル法律事務所
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論点整理(ヘイトスピーチ関係)

論点の整理です(随時増やしていく予定です。)

憲法訴訟の実践と理論(第1回):ヘイトデモ禁止仮処分命令事件(毛利透)
判例時報2321号
検討    ■T ヘイトスピーチに対する民事的救済の一般的困難性 
人種差別発言が行われた場合に、個人に具体的な損害が生じていないにもかかわらず、人種差別行為がされたというだけで、裁判所が、当該行為を民法709条の不法行為に該当するmのと解釈することは、民法の解釈を逸脱。
but
京都地裁H25.10.7、大阪高裁H26.7.8の事件は、在特会の行為が特定の学校にする名誉毀損及び業務妨害にあたることが明確な事案。
他者の感情的反発を招くという理由で表現行為を規制することは許されない。
仮にヘイトスピーチ規制が許されるとしても、その弊害は攻撃対象とされた人々一般に向けられたもの⇒この行為によって具体的に権利を侵害されたといえる者はいないのではないかということ。
■U 本決定が決めて被保全権利の内実 
在日コリアン一般に対するヘイトスピーチは優に認められるが、仮処分を申し立てた社会福祉法人を含め、特定の個人や団体が攻撃されているわけではばい。
⇒このようなデモの差止めを、誰がどういう権利保全を主張して申し立てられるのか。
身分制を脱却した近代社会において、社会的評価は個人の属性であり、集団についての評価が個人についての評価に直結すると考えることはできない。
事実としてそのように感じる人が存在するとしても、その感情自体が法的な保護に値するとはいえない。
ある集団の人々にとって、それに属するという特定のアイデンティティが各人の人格形成の基礎をなすと特定できるのであれば、その集団に対する誹謗中傷や社会からの排除扇動は、その集団に属する個人個人の人格を毀損するものとして規制可能と評価できることになる。
but
個人主義の建て前⇒各人が何を人格形成の核に据えるかは各人に自由に決めるべき事柄のはずであり、公権力がある集団に属する人々の人格形成の基礎を特定するには、非常な慎重さが求められる。
■V 差別的言動解消法の用い方 
■W 在日コリアン集住地域での計画ということの意味 
■  ■X ヘイトスピーチの表現行為としての要保護性 
■Y 公共施設における集会の使用不許可の要件 


ヘイトスピーチの法的規制について・・・アメリカ・ドイツの比較法的考察(毛利透)
★はじめに
★1 アメリカの法状況 
◆(1) R.A.V.判決(R.A.V.v.City of St.Paul, Minnesota, 505 U.S.377(1992))
黒人の自宅敷地内で十字架を燃やした者が起訴された事例で、根拠となったのが、市の「偏見を動機とする犯罪条例」中の、「他の者に、人種、肌の色、新庄、宗教または性別に基づく怒り、恐怖または敵意を引き起こす」と知ってしかるべき物体や文書などを設置した者を軽罪に処するとする条文。この条文には、例示として、燃える十字架やナチスのカギ十字を挙げていた。

州最高裁:この条例の規制対象は、連邦最高裁判例で規制が許されるとした「喧嘩言葉(fighting words)」に限定されると解釈し、そうであれば合憲であると判断。

連邦最高裁:この解釈を前提にしても、当該条文は違憲である。

@確かに名誉毀損やわいせつ表現などいくつかの範疇の表現は憲法上保護されないとされてきたが、このことは、これらの範疇内の表現はどのように規制しても憲法とは関係ないということを意味するわけではない。それらの中の禁止でも「憲法上禁止しうる内容(わいせつや名誉毀損など)」に基づかない場合には、内容に基づく許されない差別扱いとなりうる。
A「政府は名誉毀損を禁じることができる。しかし、政府は、政府に批判的な名誉毀損のみを禁止する、さらなる内容による差別を行うことは許されない」。たとえ「喧嘩言葉」の範疇内であっても、そこで伝えられるメッセージについての評価を理由にした規制は許されない
B部分規制について、まさにその理由に基づく部分規制ならば問題ない。わいせつ表現の中でわいせつ性の高いものだけを禁止することには、憲法上の問題はない。これに対し、わいせつ表現の中でも、政治的メッセージに基づく部分規制は許されない。

法廷意見は、本事案で問題となった条例は、まさに人種、宗教や性別など特定の主題に関する「喧嘩言葉」のみを禁止するものであり、さらに実際には、それらの主題に関して寛容や平等を説く側には反対は批判のための「喧嘩言葉」の使用を容認しつつ、憎しみを表現しようとする側の「喧嘩言葉」の使用を禁じるという、見解に基づく規制としても働く、という。このような規制は、議論の土俵を歪めるものであって、許されない。

確かに、人種などに基づく憎悪には対抗する必要があるが、「その対抗の仕方は、言論を選択的に制約することであってはならない。」「修正一条のポイントは、多数派の選好は、内容に基づいて言論を黙らせること以外の方法で表現されなければならないということである」

市側は、歴史的に差別されてきた人々の基本的人権を確保するという、やむにやまれぬ利益のためのものだとして厳格審査をパスすると言うが、この利益がやむにやまれぬものだとしても、その達成のためには本条例のような内容差別が不可欠とはいえない。


@人種などの「偏見を動機とする」憎悪の広がりに対して対抗することや、歴史的に差別されてきた人々の人権を確保することを、公権力の重要な任務として認めている。にもかかわらず、この任務も、公権力がその立場に反する内容の言論を禁止することを正当化しないとされている。
A公権力は思想について中立的である必要はないが、自己の立場で表現の自由規制を正当化してはならない。これは、表現の自由法理の鉄則といってもよいものであり、R.A.V.判決はこの鉄則をヘイトスピーチにも貫徹した。
Bある内容の表現が特に強い感情的反応を引き起こすとしたら、それはまさに内容によってもたらされた効果であり、それを理由とする規制は内容に基づく規制に他ならない。これもまた、表現の自由法理の鉄則。
◆(2) Black 判決(Virginia v. Black, 538 U.S. 343(2002))
R.A.V.判決の理論は、2002年のBlack 判決で相対化。

本件も十字架焼却の事案であったが、処罰根拠になったのは、他の者あるいは集団を脅かす意図で、他人の土地や公共の場で十字架を焼却した者を重罪とする州法の規定。さらに、十字架を燃やすこと自体を、焼却者がそのような意図を有していることの一応の証拠とする条項(prima facie evidence)も存在。

連邦最高裁:
「一応の証拠」条項は違憲としたものの、処罰条文自体は合憲。

十字架焼却がKKKのアイデンティティ、イデオロギーの象徴としての役割を果たすと同時に、黒人に対する脅迫手段として用いられてきたことを数々の資料によりつつ説明。そして、州は「真の脅迫」を禁止することができることを確認したうえで、当該法律は、その中でも脅迫性の強い形態を取り出して禁止するものであり、R.A.V.判決が述べていた、内容による規制が許される場合にあたる。
当該法律は、人種や宗教、性別などに基づく脅しを取り出して禁止しているわけではない。「十字架焼却は、特に敵意の激しい脅しの形態である」。「バージニア州は、すべての脅迫的メッセージを禁止するのではなく、脅迫的メッセージのこの部分集合を、十字架焼却が切迫した暴力の印としての長く有害な歴史をもつことにかんがみて、選択して規制することができる」

vs.
十字架焼却の脅迫性が特に強いのは、それが黒人差別という思想と結びついているからに他ならないのではないか。
「十字架焼却の脅す力は、それが含意しているところの、人種主義的ではあるが憲法上保護される見解の機能である」(フレデリック・シャウアー)
連邦最高裁:
「一応の証拠」条項については、十字架焼却だけで脅す意図の証拠として十分だとするものであると理解し、そうだとすると言論活動を制約しすぎるので違憲であると判断。

KKK集会などで十字架焼却は、脅しではなく政治的メッセージを伝えるためになされることがあるのに、この条項があれば、処罰される危険から、そのような保護されるべき活動も萎縮させられてしまう危険がある。確かに、集会での十字架焼却も、それを見る者には怒りや憎しみを抱かせるかもしれないが、この感情はそれを禁止してよい理由にはならない


@Black判決は、あえて、歴史的に確立してきた脅迫性の強さを、それを生み出した思想的背景とは切り離して評価する立場をとったことになる。
A言論が不快な感情を惹起するとしても、それはその言論を制約する理由とはならないという原則論を確認。これに対し、脅す意図をもった十字架焼却が生ぜしめる恐怖を防止することは、言論規制を正当化する理由と位置づけられている。
B表現活動がそれを受け取る諸個人に様々な反応を生むことは、当然予想されること、むしろ表現活動の意義と言っていいことであり、だからこそその反応は、表現活動を制約する理由とはならない
Cしかし、ある表現活動が、歴史的背景からして明らかに特定の集団に強い恐怖を抱かせるようなものである場合には、その恐怖は個人的反応というよりは、むしろ社会構造に発する必然的反応と考えるべきもの。
⇒その恐怖を独立の社会的害悪として評価し、表現への制約を正当化することも可能になる。

★2 ドイツの法状況
◆(1) 集団侮辱
■(a) 「兵士は殺人者だ」判決 
ドイツで、人種や宗教などによって特定される集団に対する侮辱的・脅迫的言論を禁止するための主な法的手段として
@刑法185条の侮辱罪を集団に対する侮辱に対しても適用する集団侮辱と、
A刑法130条の民衆扇動罪
がある。
集団侮辱とは、ある集団についての侮辱的発言が、その構成員個々人に対する侮辱と解され、侮辱罪に該当するとされるもの。
連邦憲法裁判所判決:1995年の「兵士は殺人者だ」判決。

意見表明の自由保障の観点から、集団侮辱の成立要件と厳格化した。

意見表明の自由解釈に際し、「基本法5条1項1文は、制裁への恐れから許される批判もなされなくなるような、基本権行使への威嚇的効果を発生させる刑法185条1以下の解釈を禁ずる。」としたうえで、さらに国家機構への批判が問題となっている場合には「権力批判への特別の保護の必要」に留意しなければならない、という基本姿勢。

集団侮辱を認める刑法解釈自体は容認
←個人が自身の属する集団と「多かれ少なかれ同一化する」ことがある。

意見表明の自由を考慮し、集団侮辱成立には、対象が「境界づけられ見渡せる集団」であることに加えて、非難がその集団のすべての構成員の特徴に結びつけられていることが必要。

@個人の名誉への攻撃と、許されるべき社会的批判、国家機構に対する批判との区別に困難が生じ、「それゆえ、そのような表現の処罰には、意見表明の自由に行き過ぎた制約を課す危険がある」
A集団の規模が大きくなれば、その集団への攻撃でそれに属する各個人も攻撃されたと理解することは困難になる。

「兵士は殺人者だ」とうい具体的言明について、集団侮辱性を認める判決例の傾向を否定。

@ドイツ連邦軍兵士に対する侮辱的発言が、それを構成する個々の兵士に対する侮辱罪にあたるとする解釈は容認できるが、あらゆる兵士に対する侮辱が集団侮辱を構成することはできない。
Aあらゆる兵士に対する侮辱を、その一部であるドイツ連邦軍に対する侮辱だと解釈することも許されない。
B「兵士は殺人者だ」という言明が集団侮辱となるためには、それが表面上は兵士一般を指しているにもかかわらず、そこで「まさしく連邦軍の兵士が意味されている」と立証できなければならないが、その立証が不十分。


本判決は、集団侮辱の上述の危険性を考えると、意見表明の自由保障の観点からは、英米法のようにこの解釈を認めない方が本来は適切だという姿勢を示唆しつつも、基本法自体がそこまでの限定的解釈を求めるわけではないとして、伝統的な刑法解釈を正面から覆すことは避けた。
そして、集団侮辱の成立に個人の名誉との関連性をより厳密に求めることで、意見表明の自由との調和を図った
■(b) 「アウシュヴィッツの嘘」判決と人種・民族集団への集団侮辱
集団侮辱は、人種・民族や宗教によって区別される集団について成立するか?

連邦憲法裁判所は、「兵士は殺人者だ」判決の前年、1994年に、ナチスによるユダヤ人虐殺の存在を否定する「アウシュヴィッツの嘘」と呼ばれる言論が、そいつ在住ユダヤ人に対する集団侮辱となることを肯定する判決。

憲法異議を申し立てた側の主張:このような集団侮辱を認める刑法解釈は、政治的に望ましくない言論を禁止するために使われる、侮辱概念の許されない拡張解釈であって、意見表明の自由を保障する基本法5条に反して違憲。

連邦憲法裁判所:侮辱罪の保護法益は「人格的名誉」としたうえで、原判決が「ユダヤ人迫害の否定の中に、重大な人格権侵害を認めた」ことには憲法上の問題はない。
「連邦通常裁判所によって確立された、第三帝国におけるユダヤ人住民に対する人種を動機とする虐殺の否定と、今日生活しているユダヤ人の尊重要求と人間の尊厳への攻撃との間の根拠づけ連関には、憲法上異論をはさむ必要はない」と述べ、ドイツ在住ユダヤ人に対する集団侮辱の成立を認めた。


@ドイツ在住ユダヤ人に対する集団侮辱の肯定が、過酷な歴史的体験から生じた構成員個人個人の集団への強い帰属意識と、その歴史からドイツ社会構成員に生ずる、彼ら彼女らのユダヤ人としての自己理解に対する尊重責任に求められており、本判決の集団侮辱肯定は、ドイツのユダヤ人の置かれた特殊な歴史的・社会的環境によるところが大きい
A専門裁判所の判決例においても、人種・民族や宗教集団について集団侮辱が認められた例は、ユダヤ人を除いては存在しない。
Bコンメンタールでは、ドイツ在住ユダヤ人への集団侮辱が「その人数にもかかわらず」認められてきたのは、ナチス期に被った「歴史上唯一的な」運命によってのみ説明できるとし、その他の「もはや人数的に見渡し難い」民族的な「住民の一部」には集団侮辱は認められないとの解説。

◆(2) 民衆扇動罪 
■(a) 条文の概要と学説の評価 
ドイツで集団侮辱よりも一般的に、人種や民族、宗教によって識別される集団に対するヘイトスピーチを処罰するための刑法条文は、130条の民衆扇動罪。

刑法130条(毛利教授の要約)

1項:国籍、人種、民族、宗教などによって定められる集団や、その構成員である個人に対して、「公共の平穏を乱すのに適した態様で」、「憎悪をかき立て、あるいは暴力的ないし恣意的措置をとるよう煽動する」こと、あるいはそのような態様で、それらの者を誹謗中傷することにより、その人間の尊厳を攻撃することの禁止。

2項:1項に該当する内容の文書を頒布、提示、放送などすること、およびそのために当該文書を作成・調達などすることの禁止。

3項:「公共の平穏を乱すのに適した態様で」、ナチスが行った民族謀殺を是認、矮小化し、またはその存在を否定することの禁止。

4項:ナチスの「暴力的かつ恣意的支配」を是認、賛美、あるいは正当化することにより、「犠牲者の尊厳を侵害する態様で公共の平穏を乱す」ことの禁止。

集団による誹謗的煽動は、いまだ特定の個人的法益の侵害に結びつくとは言えないが、それがもつ公共秩序への危険性に着目して、それを言論の段階で禁止しようとするのが、民衆扇動罪の特徴。

集団の利益それ自体を擁護しようとするものではない。

ヘイトスピーチについての米独比較を行ったヴィンフリート・ブルッガー
「刑法130条においては、特定されうる個人による個別の犯罪行為の具体的危険は存在しないにもかかわらず、それで刑法上の制裁に十分だとされているのであるが、この見解は、よかれあしかれ、ドイツ社会が、言葉においても行動においても反ユダヤ主義に特に染まりやすいということを引き合いに出すしかない」「ヒトラーの下でのドイツ」と「今日のドイツ」で、ヘイトスピーチが引き起こす害悪について「類似の予測」が成り立つということが、この条文を支える理解なのである。
■(b) 連邦憲法裁判所の態度 
●(i) 慎重な適用を求める部会決定 
具体的事案においては、極右のデモや集会を、刑法130条などに違反する発言がなされる蓋然性が高いことを理由に不許可とする処分の合憲性に対し、表現の自由や集会の自由への配慮から概して慎重な態度をとっていた。
特に2000年代に入ってから、極右のデモを広く認めようとする同裁判所の姿勢は、行政当局や行政裁判所との激しい摩擦を生み、このことが、ナチスの「暴力的かつ恣意的支配」の正当化自由をも法律で禁止する刑法130条4項の新設を促すことになった

@ある共同住宅でドイツ人家族とトルコ人家族との間の暴力沙汰について、「トルコ人のドイツ人に対するテロ」「ドイツ国内でドイツ人に対する民族浄化がおきる?」などという見出しを付けたビラを配布した者が、警報130条1項1号の罪に問われた事件。
2002年に連邦憲法裁判所は、原手続の有罪判決を部会決定で破棄。
←見出しだけに着目した有罪判決が批判され、文書を全体として理解すれば、当該ビラは主として事実を伝え、読者に反応を促そうとするもの。

A第二次世界大戦の敗戦直後にチェコスロバキアから追放されたズデーテン・ドイツ人の心境を歌おうとする「故郷追放者の歌」において、自分たちの家と土地が「よそ者」にはく奪されたとし、「我々を再びドイツのドイツ人たらしめよ!アメリカ人、ロシア人、異国の物は出ていけ・・ついには再び自分たちの家の主人とならん」という歌詞を差局したものが、刑法130条1項の罪で有罪に。
これに対し、連邦憲法裁判所は、2008年に、部会決定で破棄。
←この瑕疵は確かにかつての占領軍の批判ではあるが、国内の外国人の追放を求めるとか、それらの者に暴力的措置をとるよう求める内容と解するには、専門裁判所の判決には「十分跡づけうる論証がない」。被告人が極右思想の持ち主だとしても、だからといって直ちに当該歌詞からそのような内容が読み取れるようになるわけではない。


多義的表現を有罪とするには、有罪を導かない解釈をしっかりした理由をもって排除する必要があるという、1990年代以来の、批判も多い言明解釈基準を用いて、意見表明の自由の観点から民衆扇動罪の成立範囲を限定。

●(ii) 刑法130条4項の合憲性についての第一法廷判決 

連邦憲法裁判所は2009年に、ネオナチへの集会禁止処分の合憲性が争われた事件で、2005年に新設された刑法130条4項の合憲性を正面から扱い、しかもそれをナチスに対する特定の態度のみを禁止するものであって一般法律とは言えないとしつつ、それでもナチス支配の正当化は基本法に内在する例外として許されている

刑法130条4項を合憲性問題を例外的個別法というかたちで処理したことは、合憲判決がもたらす意見表明の自由法理へのインパクトを最小限に抑える意味もあった。
また、例外的な合憲判決を出すこととのバランスをとろうとしてか、本判決は一般論として意見表明の自由の重要性を強調しており、「戦う民主制」の標語として言われることとは正反対に、「自由の敵にも自由を保障する」というのが基本法の基本的立場であると明言するに至った。

@表現活動が受け手にもたらす「主観的な不安」は、表現制約の根拠として持ちだすことはできず、実際の外面的な法益侵害の危険がなければならないということも、意見表明の自由についての基本的法理として、しかも「現存秩序の原理的転覆を目指す」内容の言論についてまで、認められている。
A確かに、意見表明を禁じるために、外面的法益としての「公共の平穏」を害する危険性がどの程度必要なのかについては、あいまいな点が残る。しかし、例えば異論にさらされる者の恐怖心が、単なる主観的なものではなく、客観的に見て人々の平和的共存が脅かされていることの兆候だと認められる必要はあろう(本判決によれば、ナチス支配の是認は、ドイツ社会で一般にこのような効果を発生させることになる)。
Bそして、このような「公共の平穏」要件の解釈は、「公共の平穏を乱すのに適した態様」という弱まったかたちではあれ、それを構成要件に組み入れている刑法130条1項の解釈にも、影響を及ぼすことになろう。「純粋に精神的な領域」での議論を制約することは、基本法の要請として許されないのであり、ヘイトスピーチの可罰性を認めるには、それが人々の平和的共存に対して実際に危険性を有することが客観的に示されなければならないはずである。
●(iii) その他の部会決定 
2011年に、刑法130条2項1号aの「流布」行為の解釈につき、部会決定で態度を示している。
部会決定は、2009年判決を参照しつつ、「意見の内容それ自体を禁止することは許されない。すでに法益侵害への移行を目に見えるかたちで内包しており、それによりはっきりした法益侵害との敷居を乗り越えるような、コミュニケーション態様のみが禁止しうる。」とする。
この観点から、多人数ではなく1人に対して文書を渡す行為を「流布」にあたるとする解釈は、意見表明の自由の要請に合致しないとした。
★3 両国の比較と日本への示唆 
・ヘイトスピーチであっても、それに接する者の主観的不快感、不安感を理由として規制することは認められないという点は、両国で共通である。(233頁)

・ヘイトスピーチ規制の難問は、個人の特定の法益がまだ害されていない段階で、特定集団への誹謗的・脅迫的言論を禁止することがどの程度許されるかという点にある。この点、アメリカはもちろんドイツでも、それら集団自体の利益が表現の自由を制約しうる理由となるとは解されていない。集団的侮辱も、集団自体の名誉を擁護しようとするものではない。法的議論の出発点を、個人が権利主体であるということに置くなら、この立場は堅持すべきであろう。(234頁)

国家がある思想を「正しくない」と評価して禁止することも許されない。個人が、自らが真であると考えることを公共の場で自由に述べることは、それが他者の自由な評価を許す無力性を保っている限り、個人と共同体双方の自律を維持するために不可欠である。たとえ、その主張が、むしろ共同体を分裂させる内容を有するものだとしても、このような原理的視点を見失うべきではない。(234頁)

・ヘイトスピーチ規制の許容性を考える際に着目すべきは、攻撃対象となった人々が抱く不安感が、法的な対処を必要としない主観的な反応にとどまると評価できるか否かであろう。たとえそれらの人々が個別に侮辱や脅迫を受けているのではないとしても、集団の一員として感じる恐怖心が、当該社会の歴史的状況からして、単なる個々人の主観的不安にとどまるとは言えない、社会的に根拠のある反応であり、それにより社会における人々の平和的共存が脅かされる危険が客観的に存在するといえる場合には、ヘイトスピーチ規制が可能となると考えられる。日本で、ヘイトスピーチ規制を表現の自由の観点から正当化できるかどうかは、日本において少数派集団が置かれている状況をどのように理解するかに大きく左右されることになろう。私は個人的には、(日本では)原状を超える法規制が正当化できる状況ではないのではないかと思う。(234〜235頁)

・最後に、言わずもがなのことではあるが、ヘイトスピーチ規制は国家の規制権限を拡大するものであり、それが濫用される恐れは否定できない。立法論にあたっては、法を運用する当局をどの程度信頼できるのかという問題も、考慮に入れられなければならないだろう。(236頁)