シンプラル法律事務所
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憲法その他

政府の言論と人権理論 (金澤誠)
 
 
     
     
  ★第1章 政府言論の理論
  ◆第1節 政府言論とは何か 
     
  ◆第2節 Yudof 
     
◆    ◆第3節 Emerson 
     
  ◆第4節 Shiffrin 
  ◇(1) 折衷主義アプローチ 
     
  ◇(2) 問題提起 
     
    理論的な問題提起として、
これまでの表現の自由に関する議論は「検閲者としての政府(government as censor)」のみを考察の対象としてきたのに対し、
政府が「思想の自由市場」に対して、声を付け加えること(the government adds its voice to marketplace)については、ほとんど考察の対象としてこなかった。
but
政府言論の問題関心は、「いつ、そして、いかなる政府の手段が、論争のある価値観を推進するか、しないかを決定すること」であるとされる。
⇒次のような一般的な問題提起。

政府(公権力)が言論をすることに関して、その裁量がまったく認められないとしたら、公立図書館という州の帰還は、選書ができない。
特定のイニシアティブをするに際して、まったく公的資金の拠出が認められなかったら、イニシアティブが可能であろうか?
政府言論が認められないなら、そもそも公的学校がカリキュラムを組むことができない。
重要なことは、憲法が、
どの程度において、たとえば、文化助成を許容しているかであり、あるいは、公教育に際して特定の態度をとることが許されているか。
     
  ◇(3) 救済モデル 
  ■@ パブリック・フォーラム・モデル 
     
    連邦最高裁は、合憲性を提示する際に、公立病院、公立図書館、オフィスビル、軍隊、その他の公共施設は、伝統的なパブリック・フォーラムとして(ハイドパークのように)ふるまう必要はない。
     
    実際において、すでに述べた創出されたパブリック・フォーラムでは、公園等の伝統的なパブリック・フォーラムと異なり、その場所に応じた内容に基づく区別が認められる。
これは、すでに公権力の意思ないし政府言論が反映されているともいえる。

そうした政府言論を完全に否定することなく、フォーラムに関わる利益を調整して、個別の事例を慎重に判断する必要。
     
  ■A 反対納税者モデル 
     
  ■B 私的なリソースの掻き消しモデル 
    私的なリソース(ある人の私的な言論)を掻き消すような公権力の行使が許されないと観念するもの。
    新聞社に対する反論権ないしアクセス権を認めた法律の合憲性が争われた。
連邦最高裁は違憲とした。

(新聞社には)自律的な編集に関する権限があるにもかかわらず、反論権法が存在すると(たとえば、当該法律が新聞社に対して、内容に基づく「制裁」として機能することから)、第1修正の要求をクリアーしない。
    選挙候補者の独立支出の規制が違憲とされたBuckley判決

独立支出を規制する法律が、「私的なリソース」・・この場合でいえば、経済的に強いものによる言論・・を「かき消す」ことを問題化して、同法を違憲とした。
「われわれがある社会のある部分の言論を、他の部分の声を相対的に高めるために制限できるという概念は、第1修正には全く無縁である」というような表現の自由に関する判例で提示された議論を参照しつつ、同法を違憲とした。
     
    「私的リソースの掻き消しモデル」に反するような判例もある。
Bellotti判決は、銀行や企業という社会的権力による「言論」の害悪が問題化されており、そのことから、「私的リソースの掻き消しモデル」の意味が問われている。
but
Belloti判決は、Buckley判決に対して、それほどコメントを付することなく、それを対抗するような政府利益を認めている。
「企業や銀行は、強い権力を持っており、人民投票に不当な影響を与えるという主張がある」。
実際において、会社の言論を擁護することは、「切迫したかたちで、民主的プロセスを傷つけることになる。・・・こうした議論は、われわれの考察に役立つものである」として、(放送局に対する公平原則を合憲としたRed Lion判決を引用しながら)規制を認める一般的な枠組みを示した。

「私的リソースの掻き消し」が、Bellotti判決においては、「なぜ」当然の考慮要素ではないかという疑問が生まれる。
われわれは、このような「思想の自由市場」に対する介入のアドホックなアプローチを警戒すべきであるとされる。
     
  ■C 政府機能モデル 
    あるべき政府機能の範囲を想定して、そこから政府の活動を統制しようとするアプローチ。
     
  ◇(4) 各論 
     
  ■@ 選挙助成 
     
  ■A イニシアティブ 
     
  ■B 文化助成 
    政府機能モデル⇒選挙などにおいて、特定の候補者を支援するような補助金を支出することは憲法違反。
    いかなる目的を有するかによって、文化助成が許される範囲が異なってくる。
     
    補助金の希少性
〜補助金の支出に際して、文化助成機関が質的な限定を加えること・・・要するに、文化助成機関に一定の裁量を認めること・・・を意味する。
     
    文化助成に対しては、手続的な制約アプローチを採用すべき。
文化助成機関による補助金sの出決定に一定の合理性を認めつつ、(放送局に対する補助金の配分のように)できるだけ政治的党派から離れたかたちで、文化助成についてのルールを定めること
あるいは、文化助成をおこなう際に、政治が露骨に介入しないという、ある種の権力分立(脱中心化)のルールを定めること(こそ)が重要である。
     
  ■C 教育における言論 
     
    歴史の教師が、教科書を用いて、黒人の歴史的な貢献を強調することは許されるか?
そうした教師がいる場合に、州側はアカデミック・フリーダムを用いて、その教師を「解雇」することが許されるか?
学校において社会主義を強力に教えることが許されるか?
共産主義を強力に教えることが許されるか?
さらに、親は、こうした教育が公立学校でなされた場合に、学校から「退出する(いいかえれば、子どもを家庭に連れて帰る、あるいは、公教育を拒否して、家庭教育(のみ)をおこなう)」ことができるか?
     
  ◆第5節 小括 
     
    アメリカにいて、「国家による自由」に関する議論は、限定的にしかなされなかった「伝統」がある。
「国家による自由」は、「放送とうい極めて限られた文脈においてのみ受け取られ、『国家からの自由』としての表現の自由という原則と例外とされてきたし、しかも放送という分野における例外は原則との矛盾が問題にされ、『国家からの自由』が強力な伝統であるアメリカにおいて、『一種の奇形』であるとまで掲揚されている」とまで指摘されている。
     
    「私的リソースの掻き消しモデル」が、「過剰包摂」や「過少包摂」になること。
軍隊の隊員ひとりひとりのメンバーが、その戦術を行うことに際して、自身の「私的なリソースの掻き消し」モデルを援用して、多元性ないし多様性を要求すると、軍隊の規律や効率性は破壊され、適切でない。
〜私的リソースモデルは「過剰包摂」とすべき。
共和党を支持する人には補助金を支給するが、民主党を支持する人には補助金を支給しないことは、たとえ「私的なリソースを掻き消」さなくても違憲とすべき。

政府機能モデルがいうように、すべての党派的な政府言論は、憲法的に許容されない。

「私的リソースモデル」は「過少包摂」となる。
     
    Shiffrinが指摘したように、(国家には)ある特定の信念を「促進」することが禁止されていない。
ある信念に基づいて、国家が病院に補助金を支出すること、メディケアに補助金を支出することは合憲的に認められる(場合がある)。
Emersonが指摘するように、国家は、情報を知らせて、教育をして、説得をすることが許されている。
今日の行政国家を前提とするならば、このような行為をすべて違憲とすることはできない。
とりわけ、公教育に関していえば、公教育を国民に対して実施することを否定しない限り、子どもは、「捉われの聴衆」として、国家による「教化」活動の脅威にさらされることになる。
     
    政府言論が、より多様な「方法」でおkなわれ、より多様な「効果」をもたらし、より多様な「理由」で行われる⇒政府言論の解決に際して、より複雑な思考が求められる
     
  ◆第6節 政府言論の多様性 
  ◇(1) Bazanson & Buss 
   
  ■@ 独占 
     
    文化助成をする際に、「品性と尊重」という条件が法律で定められたことが合憲とされたFinley判決がある。
文化助成は、政府が新しい市場を設営した場合⇒ひとまず強い独占の可能性が生じうる。
but
新しく設置された文化に関する市場は、幅広い芸術市場のほんの一部分であるともいえる。
その意味において、より広く、以前から存在する芸術に関する市場があることから、芸術に関する市場は、未だ開かれたままであるとも評価できる。
     
  ■A 欺き・歪み 
     
  ■B 属性 
     
  ■C 小括 
     
  ◇(2) 最近の判例や類型 
  ■@ 直接言論型 
     
    政府の任務は私的な個人や集団による自由な表現活動を規制することに限定されるものでhなあい。
政府それ自身が、常に思想の交換市場に参加してきた。
そのひとつが、記者会見。 
記者会見の危険に対する処方箋つぃて、「政府の表現が、独占的ないしは半ば独占的に作用する場合」には、「バランスのとれた(見解)の提示」や、さらには、「その表現が、捉われの聴衆(否応なしに聞かされる聴衆)に向けられている場合には、政府は、政治的表現に携わってはならない
」ことが重要とされる。
     
  ■A 強制型 
  □a) 国旗敬礼行事型 
     
  □b) ナンバー・プレート型 
     
  ■B 非強制(環境形成)型 
     
  □c) 国家助成型 
     
  □d) 図書館の選書型 
     
    こうした初等教育機関(の図書館)が有する環境からすると、教育委員会側の自由裁量は認められない。
国旗敬礼行事への参加強制が問題となったBarnette判決がいうように、その裁量は、「偏狭的に党派的、そして政治的なやり方で」行使してはならない。
    たとえば、共和主義者の好みにより、党派的な動機をもって、教育委員会が図書を排除することは憲法違反。
白人ばかりの学校で、人種を理由として、黒人関係や人種の平等についての図書が排除されたら、それは違憲である。

生徒のこれらの図書へのアクセスの権利を否定することになる。
憲法は、官憲による思想弾圧を許していない。
     
    学校図書館を含む公立図書館は、すべての思想を抱え込むべきであっても、予算に関する限界や、図書を配置するスペースに限界⇒現実には不可能⇒教育委員会や初等教育機関における図書館の運営に関する広い裁量を認めるべき。
but
「閲覧に供されている図書」の「除去」という行為に限ってみれば、学校図書館を含む公立図書館側の裁量との折り合いをつけやすい。

予算や場所に関する専門的判断を比較的必要としないことから、より不公正な取扱い・・・判決の表現を用いれば、「強烈に党派的、あるいは、政治的なやり方で」判断がなされたという認定がしやすい。
     
  □e) 公園のモニュメント型 
    Summumという宗教団体が、市の管理する公園において、十戒のモニュメントの展示を認めながら、7つの格言というSummumの格言のモニュメントの展示を認めない⇒第1修正(表現の自由条項)違反であると主張して、モニュメントの展示を認めないという市の行為の暫定的差止め命令を求めた。
連邦最高裁:
公園の常設展示を置くことを政府言論であると解する。
第1修正は、公権力が私的言論を規制することを禁止する条項であり、本件のように、政府言論が問題となる場合では適用されない。
⇒本件は、第1修正が要求するような厳格な審査を必要としない
公権力は、自らが望むことを国民に対して伝える権限があり、表現しようと考える観点を選択できる。
公権力は、選択したメッセージを伝えるためには、私人に対して補助を求めることができる。
but
制約あり。
政府言論は国教樹立禁止条項に適合する必要があるし、
公務員による政治的な扇動もまた規制される必要がある。
プブリック・フォーラムの法理は、多くの人々の言論を促進する場合に適用されるものであり、
本件のような限られた常設展示にアクセスるという場面では適用されない。
    すでに展示されているモニュメントは、他のモニュメントを「排除」している。
ある公有財産を(独占的に)使用している者の言論を「かき消す」という状況⇒公園のという財産の「利用」に関する議論をする際には、パブリック・フォーラム論が示唆するような平等モデルが(ひとまずは)重要となる。
but
公演を管理する自治体が、モニュメントの選定に関して観点中立性を完全に維持できないという「実質」的判断についてはも、否定できない。
⇒ふたつの要請の調整を慎重に考えてく必要。
but
連邦最高裁は、モニュメントの展示が政治言論であるという「形式」的判断を示したことが問題。
学説の中には、判例による厳格な二分論を批判しつつ、「混合した言論」という形態を認め、中間的な審査基準を模索するもの。
@誰が話してであるか
Aそのメッセージをコントロールしているか
B誰がその言論に対して資金を提供しているか
Cどのような表現内容か
D合理的な人間は、当該表現を誰の属性と考えるか
という考慮要素を提示。
    公園のモニュメントが政府言論であるとしても、そうした政府言論は表現の自由条項や国教樹立禁止条項に適合する必要がある⇒ある(宗教)団体のモニュメントを恣意的なかたちで是認したり否認したりすることを無条件で許容するものとまではいえない。

モニュメントの展示の是非に関しては、国教樹立禁止条項だけではなく、すでに指摘したように、表現の自由条項(公権力が有している表現媒体に対する平等アクセス)の要請をある。
     
     
     
     
     
     
     
     
     

給付行政と表現の自由:政府のメッセージを手がかりとして (金澤誠)
  ★はじめに
  ★第1章 序論
  ◆第1節 表現の自由論 
  ◆第2節 給付行政と権利 
    裁判においては、「誰のどのような権利・法益が侵害されたか」という論理構成が採用
⇒非権力的作用である給付措置を、憲法(法律)違反として争うことに難点がある。
    憲法典における(支出に関する)規定から、直接的に支出行為を問題視することは難しい。
日本国憲法では、憲法89条での公の財産の支出に関する規定と、憲法20条の政教分離の規定を置くに留まっており、
アメリカ合衆国憲法でも、財政に関する憲法典レベルでの規定として、
第1編第8節の支出に関する規定、
第1修正の国教禁止条項
より一般的な州際通商条項、
デュー・プロセス条項
といった規定を置くに留まっている。
    平等原則などの一般原則
給付決定が、後に突如として撤回される場合においては、撤回という行政決定の性格や、権力分立の観点からの考察。
  ◆第3節 本稿の視点 
    @政府言論
A判例法上の「違憲な条件の法理」
〜政府が、国民に憲法上の権利を放棄させることを約束させたうえで、恩恵を与えることができるかということの判例法の考察。
     
  ★第2章 理論装置としての「政府言論」 
  ◆第1節 初期の「政府言論」理論 
    「不適切な形で政府による言論市場の歪曲の可能性」を問題視する発想。
  ◇(1) Emerson 
    @「政府の表現が、独占的ないしは半ば独占的に作用する場合」における、名kらかの指導方針の定式化として、「バランスのとれた(見解)の提示という観念」
A「その表現が、捉われの聴衆(否応なしに聞かされる聴衆)に向けられている場合には、政府は、政治的表現に携わってはならない」
  ◇(2) Yudof 
  ◇(3) Shiffrin 
    Barnette判決:
公務員による説得(任意)は良いが、強制はできないという単純な二分論。
vs.
行政による非権力的な(任意や説得による)行動を一般的に許していることを問題視。
    4つの具体的な裁判救済モデル
@パブリック・フォーラム論モデル:
具体的な、平等条項を通して(第1修正に言及せずに)、政府が選別的な利用許否をしてはならないとした事例
but
設営・管理の場面において恣意が入り込む余地があり、完全ではない。

A反対納税者モデル:
国民は対立するイデオロギーを伝達するメッセージに対して、それに貢献することを強要されないと観念する方法。

B「思想の自由市場」での実質的な影響度に力点をおく議論。
アクセス権に関する事例。

CEmersonが指摘したような政府機能モデル:
政府機能について限定を加えるアプローチであり、政府は特定の候補に対して公的権限を与えることはできないという選挙プロセスに関する原理を論じている。
    特定の候補者を支援するメディアの時間を買うとういような政府による介入は、古典的な第1修正違反になるとして、厳格審査が必要とする。
これに対して、芸術的・文化的助成については、政治的自由との比較の中でより慎重な形で検討がなされている。
@芸術的な表現は政治的な表現と範疇化されるべきか、それとも、芸術的自由として範疇化されるべきか。
A政府による補助金には限りがあることをどのように理解するか。
B補助金を拒否されたとしても、芸術に関する自由権は存在するのではないか。
C文化についての専門的な助成機関に絶対的な中立性を要求することはできないのではないか。
が検討。
Shiffrinは、文化助成の問題を語る場合に、端的に典型的な政治的な領域との類推の中で議論。
典型的な政治的な領域における助成(配分)には限界があることを暗黙の了解にしている。

文化助成の解決は難しいと素直に表明したうえで、「行政過程が過度に政治化することに注意する必要がある」として、やや抽象的(限定的)な結論を導こ出している。
  ◆第2節 Bezanson&Bussによる「政府言論」理論 
    政府言論の危険性について3つの構成要素において説明。
     
  ◇(1) 独占 
    市場の独占とは、政府が私的なコミュニケーションを排除し、「思想の自由市場」を政府が独占するかどうかという議論。
    第1:初等教育機関における学校図書館での選書問題
@大学の生徒が受け取れるだろうメッセージよりも、初等教育機関の生徒が受け取れるメッセージが少ない⇒より独占の問題が生じ得る。
A教育に関する市場を考える場合には、受け取ることができる表現が最初から制限されているとう教育市場の性質。

生徒の権利を援用することにより、生徒が見識可能な視野を拡張されるべき。
    第2:競争的な芸術文化支援の事例
新しい市場は幅広い芸術市場のほんの一部分であり、より広く、以前から存在する市場が利用可能⇒芸術に関する市場は未だ開かれたまま。
    第3:州所有の公共放送局が大統領選の演説討論会に当選の可能性がない独立系候補を招待しなかった事例。 
候補者にとってはとても重要なもの
←この市場の独占という問題は、第1修正の根底にある価値を内包。
具体的には、第1修正の1つの側面である自己統治プロセスに関する価値が内在。
but
違憲とならない

連邦高裁が示唆してるように、技術的問題として、ごく小さい独立系の党に関する除外は認められる。
規制行為に関する基準を正確に用いることにより、合憲とすることが可能。
     
  ◇(2) 欺き・歪み 
    欺き:
「政府がある観点に基づいてコミュニケーションをする場合であるが、ある意味では、それを露わにするこっとなく、問題となった事例に対して、後ろ側でその意思を公表する場合」

歪み:
「思想の自由市場に対して政府が参加することによって、政府が他者の声を聞かずに、あるいは、関係する聴衆に及んでいる思想を曲げることによって、市場を歪曲化すること」
   
  ◇(3) 属性 
  ◇(4) 小括 
     
  ◆第3節 判例法(Board of Education v. Pico判決) 
     
  ◆第4節 検討 
  ●第1:政府が話すという問題状況を、現代型行政国家において、どのように位置づけるべきか?
A:政府が話すことは、国民の知る権利の範囲においてのみ認められるとする狭い立場(Yudof)
B:広い政府の言論を認めてもよいとする立場(Emerson、Shiffrin)
←現代型行政国家における政府の責務
  ●第2:政府言論の会得k津に際して、Shiffrinらが一定の救済モデルを抽出 
「思想の自由市場」への効果的な参加という観点⇒国民の知る権利の系譜に位置づけ
政治的な自由市場がゆがめられる可能性を問題視する政治資金文脈
Benzanson&Buss論文:
例えば、教育市場は芸術に関する市場よりも、独占の可能性が強い⇒歪みの問題を強く認識すべき。
  ●第3:Pico判決への賛否 
「思想の自由市場」に歪みが生じているとしても、それは教育制度内におけるもの。
教育市場においては、たとえ全ての思想を抱え込むことが必要であっても、現実には不可能⇒基本的に教育委員会に広い裁量を認める考え方があり得る。
Pico歯寝k津の相対多数意見:
学校教育に関する市場を、(子どもが)「多元的で論争的な大人社会への準備をする場所」として、より公共的な性格を持つものと位置付けていた
〜歪みを積極的に認定するための1つのファクター(行政機関の裁量を狭めるもの)として機能。
  ●各論者に共通して見られる民意形成過程という発想 
Emerson:政治的表現への政治の参加という形で議論
Yudofによる政府言論も、国民の知る権利の範囲内でのみ認められるという前提をとり、第1修正を同意形成過程と結び付けていた
Shiffrin:政治的助成と文化的助成で差異を設けたように、とりわけ、政治的な討論の過程に効果的に参加しようとする国民の地位を強く問題としていた。

表現の自由の中核というべき、民意を形成する領域での助成に関しては、強い統制を働かせるべき(歪みを認識すべき)とするもの。
     
  ★第3章 判例法理としての「違憲な条件の法理」 
  ◆第1節 理論 
    違憲な条件の法理:
受得k氏派に対して、憲法上の権利を放棄する条件をつけた上で、利益を与えることを禁止する法理
  ◇(1) Kreimer 
  ◇(2) Epstein
  ◇(3) Sullivan
  ◇(4) Sunstein 
     
  ◆第2節 判例法 
  ◇(1) Maher v. Roe判決 
  ◇(2) Harris v. McRae判決
     
  ◆第3節 検討 
     
  ★第4章 現象としての「言論助成」 
  ◆第1節 問題の所在・・・・言論助成は特別か? 
    言論助成の文脈における判例法が、
「憲法上保護された活動に資金の提供を拒否するのは、その活動に処罰を課すことに匹敵すると考えられるものではない」と判断。
  ◆第2説 解決理論 
  ◇(1) 消極的アプローチ・・・文化専門職論を一例として 
  ●一般的・構造的アプローチ
  NEAなどの文化助成の文脈では、伝統的な第1修正に関するアプローチは意味をもたない。
言論助成の文脈は、第1修正の伝統的な議論とは離れた問題領域であり、既存の法理であるパブリック・フォーラム論、政府言論、違憲な条件を法理、観点に基づく差別の禁止という法理はそれぞれ限界がある。
文化助成に関して審査機関がある一定の観点に基づく差別をするということは、むしろ要請される。
  ●脱中心化モデル 
     
  ◇(2) 積極的アプローチ・・・表現の自由の中核としての公共討論モデル
  ■@言論助成に関する学説の共通要素
  ■APostによる公共討論アプローチ 
     
  ◆第3節 判例法 
  ◇(1) Rust v. Sullivan判決 
  ◇(2) National Endowment for the Arts v. Finley 判決 
    芸術的卓越性、芸術的長所が申請の判断基準でああり、それは、多様な信念とアメリカの公的価値観に対して、一般的に「品性と尊重」を考慮に入れられるとする基準が組み込まれた。
⇒この規定により、不採択とされた芸術家4人が、政治的理由により拒否されたとして訴訟を提起。
NEAが一定の「観点に基づく差別」をすることにより、芸術に関する一般的な討論が縮減されることもあるが、そもそもNEAの資金は限られており、その中でNEAは無数の解釈をしなければならない。
⇒NEAによるいくつかの内容に基づく考慮は、芸術に関する助成の本質的な結果である。
違憲とされたRosenberger判決は、大学というパブリック・フォーラムの事例である。
NEAの権限が芸術的な観点からなされるのに対して、大学の事例は、全て教育に関連する出版物を対象とするもの。
  ◇(3) Legal Services Corp. v. Velazquez判決 
     
  ◆第4節 若干の検討・・・「公共討論」を「歪める」とは何か? 
  ◆おわりに